傷ついた事など忘れてしまえ。
いつか終わる恋だろうと、今も偽りの愛だろうと、
今の思い出を煌めきの中へ。






Bye-Bye






 彼が他の女とキスをしているのを見たのは三日前。角を曲がった時に運悪く出くわした。 彼に気付かれたかどうかは分からないけれど、わたしは溜息も付かずに踵を返した。 彼が他の女を空き教室に連れ込むのを見たのは二日前で、彼が他の女に愛をささやくのを聞いたのは昨日。 でもわたしはやっぱり溜息一つ付かないで踵を返した。彼がわたしに気付いたのかももちろん知らない。
 別に今に始まった話じゃない。彼はわたしの男ではあるけれど、きっと恋人とは言えない。 キスもする。セックスだってする。 デートもするし、腕も組むけれど、わたしたちのそれはきっと恋愛ごっこだ。

「見てたのに何も言わなんだね?」

 髪をくしゃくしゃにする癖を持つこの男の髪は大概ぼさぼさだ。顔はいい。 中身は問題があれど、その問題は見る人にしか見えない。目立つし、人気者だし、成績もいい。

「ええ、見ていたわ。」

 彼の方を向いて笑うと、彼も薄く笑った。とはいえ彼はいつだって笑っているから、これが彼の顔か。

「ジェームズ、わたしに何を望んでいるの?」

「怒るとか?」

「わたし怒らないわよ。」

「うん。じゃぁ嘆くとか?」

「嘆かないわ。」

「うん。」

 薄く笑った彼の口角が少し下がる。けれどまだうっすらとした笑いが残っていて、 どこか不気味な表情に映る。鏡をプレゼントしたいと思った。きっと彼は自分のこういう表情を知らないのだろう。

「ジェームズ。貴方って馬鹿よね。」

 彼がどうしてわたしに見せるように女の子を誑かすのか分かっている。 わたしに面倒くさい女になって欲しいのだ。それは純粋な嫉妬や、そういう女が好きだからとかではない。

「わたしからは絶対に言ってあげないわ。」

 たまには悪役になるといい。今まで行ってきた女の子への行いを恥じ入れ、後悔すればいい。

「ほんと馬鹿よね。一番好きな女の子を最初から求めればよかったのに。」

 そうしていれば、こんな風に狡い行いに走ろうとしなくて済んだのに。 格好良くて、欠点のない、人気者のジェームズ・ポッターで居られたでしょうに。ああ、欠点だらけか。 彼の愛する赤い百合の花は、彼の欠点ばかりを知っているもの。
 男って馬鹿。好きな女の前で恰好付けようとして失敗して、その彼女が愛してる男が優男だからっていじめてみたり。 彼女が嫉妬するように、優しくしてくれない彼女に見せつけるみたいにわたしと付き合ってみたり。

「知ってるんだ。」

「女はね、男ほど馬鹿じゃないの。」

 彼の崩れたネクタイを直してあげた。 そのまま首を絞めてやろうかと思ったのが伝わったのか、彼の体が強張った。

「わたし、人殺しなんてしないわよ?」

 酷く優しい声で彼の耳元に囁く。一生忘れない程怯えればいいわ。

「ねぇ、、どうして僕と付き合ってくれたの?」

 彼の肩に軽く手を添えて、とん、と押す。よろめいた彼と数歩の距離ができた。

「あら、本当に馬鹿ね。」

 人通りの少ない廊下。夕暮れ。窓の外は少しずつ闇に向かって走って行く。冷たい風が冬の訪れを感じさせた。

「愛してるからに決まってるでしょう。」

 視界が揺らいで、涙が頬を伝って落ちた。たった一滴だけ。それ以上泣いてもどうにもならない。

「誰よりも愛してるわ、ジェームズ。」

 彼に一歩近づく。彼もまたわたしに一歩近づいた。

 ジェームズの顔は酷い。こんな馬鹿みたいな顔は始めてみた。 いつも張り付いてる笑顔はどこかへ忘れ去られて、寄せられた眉と、見開かれた瞳、そして薄く開いている口が、 悲愴を訴えかけてくる。

 後悔してる?女って恐ろしいでしょ?男にはできそうにないことを、何なくやりこなしてしまうのよ。どんなに素晴らしい役者でも、恋する女には敵わない。

「キスをして、ジェームズ。」

…」

「最後に一度だけでいいわ。そしてキスをしたら、お別れを言ってちょうだい。」

 本当はもっと、もっと、もっと、悪者にしてやりたかった。彼が幸せになって、例えば彼女と結婚して、子供ができて、その子供がホグワーツへ入って、その子に子供ができて、彼が何時か十字架の下に眠る日が来ても、今日を忘れられないくらい悪者に。 でもきっとわたしには無理。
 ねぇ、ジェームズ、一生、死ぬまで、わたしを忘れないでいて。今だけでいいから、そんな陳腐な永遠を感じさせて。

 彼に一歩近付けば、彼との間に取った距離はもうない。彼が少し屈んで、わたしが首をほんの少し伸ばせば、 わたしたちの唇は静かに触れあった。ほんの一瞬だった。それで充分だったから自分から唇を離した。彼と付き合いだして初めての軽いキスだったかもしれない。 挨拶よりも軽いキス。でもそのキスがどのキスよりも深く、重いわ。

「さよなら、。僕は君を愛していなかった。」

「ありがとう、ジェームズ。わたしはあなたを愛してた。」

 踵を返して、わたしは歩きだす。
 明日は友人として、彼に朝の挨拶をしよう。きっと彼も、いつもとは違う、 張り付いただけの笑顔じゃない、本当の笑顔で返事をしてくれるだろうから。