「逃げろ!!!」

温和な人だった。
声を荒げるところなんて見たことが無かった。

あの日、必死な顔をして叫んだ貴女を、
僕はきっと忘れないだろう。










あなたの名を、



     小さな星よ











 暗い森の中だった。あたりは漆黒を越える闇に包まれて、静寂を超える沈黙を湛えていた。 少し荒くなった息遣いが森中を駆け巡っていくような心地がして、無意識のうちに手で口を覆った。 空を見上げればデスイーターのマークが上っていて、その周囲は灰色とも黒とも似付かない色に満ちていた。 星は見えない。曇り空よりも煙たい空だ。
 僕は考えていた。逃げる事と戦う事はどう違うのだろう。シリウスが逃げるのは恥じであると言っていたけれど、 僕たちは今戦いながら逃げている。仲間は散り散りになり、けれど敵は強かにも数人で追い詰めてくる。 正直言って僕たちの負けだ。命を守る事と、栄誉を守る事。どちらをとっても人からは罵られるのだろう。溜息が漏れた。
 見上げてもひたすらに気味の悪いマークが空を制していた。光はどこへ行ったのだろう。 僕は命と栄誉のどちらにも執着はない。ならばどちらを選べば良いのだろうか。
 答えが出なくて、僕は漏れ出るような乾いた嘲笑を一つ。
 数メートル先で枝を踏む音。敵に違いない。そもそも敵とはなんだろう。 同じ魔法使いだ。同じ学び舎で学んだ魔法使いだ。もしかしたら向こう側で杖を構えているであろう人間は、 同じ机を囲んだ人間かもしれない。
 胸の奥が痛い。鼻の辺りがツンとしたような気がした。

「リーマス・ジョン・ルーピン?」

 今度こそ涙が溢れるような、そんな感覚が体中を駆けていった。小さい割りによく通る凛とした声。 囁くように話すのに、図書室の置くから僕を呼ぶ声が風に乗っていた。そして百合に似た香り。 自分はきっと誰のお嫁さんにもなら無いだろうからと言った彼女に、遠い遠いアピールがてら僕が送った香水の香り。
 背にしていた木を離れて、反対側に居るであろう彼女の前に立つ。
 短く切りそろえられた髪。東洋の血の混ざる顔立ち。理知的で、けれど悪戯めいたような笑い方をする人だった。

「ああ、そうだ。僕はリーマスだよ。」

 悲しみが体中を走り抜けて、地面を伝って彼女を侵して行けば良いと感じた。 そして彼女は僕と共に騎士団本部へ帰ればいいのだ。 誰のお嫁さんにもなれないなら、僕のお嫁さんになれば良い。 僕のお嫁さんになってくれる人なんてきっといないだろうから、自分をそんな風に言った君にとても見合うだろう。

、一緒に、行こう?」

 僕の声が風に乗って、彼女の耳に言葉が伝わる。彼女の瞳は大きく見開かれて、一度だけ閉じられて、 そしてきらきらと光る何かが、彼女の頬を流れ落ちていった。

「リーマス…ごめんね、無理だよ。」

 運命と言う言葉を、宿命と言う言葉を、血縁と言う言葉を、重んじるのだろうか。 君はまだ縛られるのだろうか。生まれてしまった事を恨み続けるのだろうか。 今も、その血と、振り分けられた寮に、縛られ続ける意味がどこにあるんだろうか。 けれど少なくとも僕はそれを分かってしまう。 君に少しずつ注ぎ込まれた価値観。運命と言う柵。忘れられない、見失えない道。

「逃げて。」

 君はどうなる?僕が今君に魔法をかけて、君を連れ去る悪者になったとしたら、君はどうなる? ここに置いて行っても、連れて帰っても、同じ君ならば・・・。同じ君ならば僕は躊躇わないのに。

「僕のお嫁さんの席が空いてる。」

「ええ、どうか永遠に空いていることを望むわ。」

「僕は、そこに座って欲しい人が居るよ。」

「そう、でも、ごめんなさい。」

 はらはらと散る光。空に打ち上げられた印が消えかけて、月の光が一つ二つと反射していた。
 俯いた君の表情は分からない。けれど僕の中に流れる感情が君の中にも流れていると、そう、僕は信じているんだ。

は迷っている?」

「迷っているわ。でも、答えは一つしか出せないの。」

「今も、昔も、これからも?」

「できる事なら、殺して欲しいけれど、それは貴方には酷でしょう。
 だから、逃げて、リーマス。」

 図書室の奥。いつも君はぶ厚い難しい本を開いていた。 僕が入ってきた事に何故か直ぐに気付いて、君の小さな声が風を伝うように僕の耳に届いた。 三つも年上の君は大人びているのに、声を聞きつけた僕を見つけると悪戯めいた顔をしていた。 難しいそうな本を閉じて、僕と向き合ってひそひそと話し始めると、 君との距離はもうどこにも無かったように感じてた。実際には恐ろしいほど違う道を歩んでいた。 決して交わる事のない、出会ってはいけなかった道だったんだろう。
 一度だけキスをした時、君から香る僕が送った香水が鼻をくすぐって、酷く満たされていく感覚が忘れられない。

・・・」

「いたぞ!」

 誰の声だろう。聞いたことが無い。ただ僕らは見つかってしまったのだ。

 敵

 そう、敵に。君も敵なのだろうか。ずっとずっと君も敵だったのだろうか。

!何を!?」

 が魔法を放った。敵に。僕の敵に。
 振り返って、笑って、そして表情を変えた。

「逃げろ!!!」

 彼女は叫んでいた。今までに見たことの無い必死な顔。そして今までに聞いたことの無いほどの大きな声。

「逃げるんだ!リーマス!私は、それを望む!!」

 強い意志を持った少女だった。彼女にいつだって僕は逆らえなかった。

「君が殺されてしまう!」

 足音がする。迫るように近づく足音。見え隠れする人間に魔法を放つ僕と君。本当に敵とはなんなのだろう。

「構わない。」

 振り返った彼女が笑う。頬に伝う涙がきらきらと反射して、まるでそこに星空があるようだった。

「私を、君の為に死なせてくれ、リーマス。」

 君は、栄誉を。

 僕は、僕は、僕は。

 僕は。

 頷いていたのだろうか。ありがとうと君が言う声が鼓膜を震わせて、僕の目が湿り気を帯びた。 頬を伝っていく涙。
 大地が潤って、闇という闇を食い尽くせば、君が救われるだろうか。
 いや、きっと、分かっている。君は闇に生まれた。闇に生きて、闇に死んでいくのだと、決めていた。 僕は、僕のお嫁さんの席は空席のままだ。君がお嫁さんになることがないように。

「愛している。リーマス。
 どうか、私を、覚えていてくれ。」

 王子様になれなかった。僕の愛した彼女が誰よりも王子様のようだったからだろうか。 足を組む仕草も、片目を閉じて笑う姿も、小さく囁く声も、 短く切りそろえられた髪も、細められる瞳も、語る言葉でさえ、全て、僕を超えていた。 そしてその最期もまた、僕を越えるのだ。

 僕は弱虫だ。

 彼女に背を向けて駆ける。振り返ったりなどはしない。彼女は僕を逃がすだろう。 意志の強い女性だ。僕が逃げ延びるための時間を確り用意するだろう。そしてきっと笑うのだ。誇れる自分で在り続けたと。
 だからせめて、僕は君を信じた栄誉を得よう。君に背中を、命を、任せた。 愛するものを心から信じた栄誉を得よう。

 僕は取り残されて、惨めな狼になろう。御伽噺は終わる。伝説にならずに御伽噺で終わってくれるだろう。

 大丈夫だ。
 大丈夫。

 姿現しが出来るところまで出て、姿現しをする瞬間。遠くの森が緑に光る。 誰のものかは、誰の為に撃たれたのかも分からない。ただ僕は彼女の勝ち誇ったような微笑を見た気がした。



+++

戦う事、守る事、逃げる事。
敵って一体なんでしょうか。