苦しむのは得意じゃなかった。
痛みも大嫌いだった。
だから、
私の感情の波は緩やか過ぎるほど緩やかに取り繕われた。
Why Not ?
珍しく天気の良い日だ。空は青々としていて、吹き抜ける風が緑の匂いを含んでいた。
大きな木の幹に背を預けて、何も考えずに見上げる空は遠く、そして偉大に思えた。
届かない。私たちがいくら手を伸ばしても、どれ程死力を尽くしたとしても、絶対に届かない事を諭しているようだった。
空は何も言わない。私が何も言わないのとは似ても似つかない。空は話す事を知らない。
私は黙る事を知っているだけだ。
空を小さな何かが横切る。目を凝らせばそれは人間だった。
飛び方の乱暴さと、けれどそれで居て巧妙な技術からジェームズとシリウスだと分かった。
相変わらず上手い。彼らほど荒々しく、けれど上手く飛ぶ人間を私は知らない。
彼らは私の自慢だ。彼らは私を友人と呼んだ。けれど私が彼らをそう呼ぶ事は憚られた。
別に何がどうしてといったことは無い。ただ私は友人と言いうものがいまいちよく分かっていないだけだ。
「なにしてるの?」
「馬鹿を見てる。」
いつの間にか横に立っていたリーマスが私に笑いかけた。私の返答を聞いて彼も空を見上げる気配がした。
隣に立った彼から薬品の匂いがした。そっと彼を見ると、あちこちに小さな傷が出来ていた。
だらしなくボタンの外された袖の裾からは、真っ白な包帯が風に揺られてほんの少し見え隠れしていた。
「また無茶な飛び方だね。」
「上手いから落ちないだろうからいいよ。」
「そういう問題かなぁ。」
「その程度の問題だよ。」
草を踏む軽い音。より一層私に近づいた彼が隣に腰を下ろした。手には見たことが無い本。
どうも随分真面目な本のようだった。畏まった革張りの表紙に、これまた畏まった金字のタイトルが見えた。
そして薬品の匂いに混じって、私の鼻を甘い香りが誘う。
「チョコ、頂戴よ?」
「んーいいけど、質問しても良い?」
「チョコをくれるならね。」
リーマスの方を向けば、彼は満足そうに笑っていた。
小さな傷の無数にある顔。それに反するみたいに柔らかい笑顔をしている少年は、年頃の女子に良くモテる。
元の顔もそこそこだから当たり前だろう。人当たりもよく、上で飛んでいる二人に比べれば話しかけやすい。
モテない理由がどこにも見当たらなかった。今も通りすがりの娘さんが私を睨んでいった。
そもそもこんな人気の無いところを通りすがる事なんてない。彼女はリーマスを追ってきたのだろう。
「あ、あった!」
鳶色が太陽の光を受けて薄い金色をしていた。
自分が一人の少女の嫉妬に火をつけるようなまねをしているとは露知らず、彼は鞄の中から、必死に探っていたお菓子袋を見つけたようだった。
リーマスがくれようとしたとっておきのチョコを避けて、彼のお菓子袋から丁度良いチョコレートを一つ手に取った。
「これが良い。そっちは甘すぎるわ。」
「え?そう?」
リーマスは困ったような顔をしたまま、私に渡そうとしていたチョコレートを自分の口に入れていた。直ぐに難しい顔が綻んで、彼が酷くチョコレートが好きなことだけ伝わってくる。
時に考える。彼のような人の隣に立つ女性を。きっとふわふわとした、女の子らしい女性だろう。
そしてきっと花のように笑って、淡い嫉妬心や、果ての無い心を持ち合わせている。
そう、強いて言えば、理想の女性像ってやつに似た女性だろう。
私は何故そんな事を考えるのだろう。分からないけれどそうする事が当たり前のように感じた。
きっとそれは間違っていなし、けれど酷く間違っている事なのだろう。
彼の色恋に関わらず、彼らを取り巻く色恋に興味は無い。シリウスの彼女の数なんて数えていたらきりが無い。
ジェームズとリリーなんてそのうちくっ付くだろう。ピーターはちょっと難しいかもしれない。身なりも中身もちょっといまいちモテる要素は無い。
でもきっとそれなりの女性を見つけるだろう。
隣に座るリーマスはどうだろう。誰よりもチョコレートの似合うこの男はどうだろうか。
理想の女性像のような女の子と付き合えるだろうか。そもそもその必要があるだろうか。
私の知らない彼というのは多い。知らないから予想が付かず、結果理想の女性像を当てはめてしまったのだろうか。
そうかもしれない。
「質問は?」
口の中のチョコレートが溶けて、甘たるい味が体中を満たしていた。
リーマスが暫く空を見上げて、旋回する彼らを見ていた。彼の瞳はどれくらいまでその姿を捉えているのだろう。
彼の瞳が小さく揺れる。太陽に当てられて細められる。純粋に綺麗な少年だと思った。
「は、さ、」
「なに?」
「僕を好きになってくれる?」
何を聞かれているのかが分からなかった。ただこちらを見詰めた彼の瞳が陽炎よりも揺れ動く。
泣きそうだと思った。リーマスが泣いてしまいそうだと思った。
そして胸の奥が少し騒ぐ。けれど私は感情の波を整える。ひたすら数を数えるみたいに。
リーマスが泣いてしまうのが悲しい。何故悲しいのか考える。落ち着け、と唱えた。そしてまた考える。
「そもそも私はリーマスのこと嫌いじゃないから、その質問に意味はないわ?」
「うーん、そう、そうだよね、はそういう感じだ。」
「え?」
「いや、それともう一つ。」
「質問は一つと言ったじゃない?」
「これは質問じゃないよ。」
少し片眉を上げれば、彼は少し緊張した微笑をしていた。何を言おうと言うのだろう。
少なからず仲は良い。緊張するほど根を詰めて話さなきゃならないならない事などあるだろうか。
まるで知らない相手に話しかけるように。いや、それ以上に体を強張らせているように思えた。
「何?」
拙い笑顔のまま暫く動か無かった彼に、痺れを切らして声を掛ければ、彼はスッと顔だけ私の方に寄せた。
どうやら内緒の話らしいことを悟って、彼のほうに私も顔を近づけると、彼の唇が私の耳に寄る。
吐く息が耳に当たるほど寄り添った唇が、そっと音を紡いだ。
「僕は、人狼なんだ・・・」
彼はいつもとは違う深刻な低い声を緊張で掠れさせていた。私の肩にそのまま頭を埋めた彼の表情は分からない。
けれど少し早まった呼吸が彼の緊張を私に伝えた。彼の背に触れる。彼の背が少し跳ねた。
軽くさすると、温かい何かが肩口を濡らした。
「そんなことか。」
自分でも驚くほど感情が篭った声だったと思う。
色々な、それこそ溜めておいた感情の全てがそこに注ぎ込まれたように感じた。
リーマスが少し驚いたのが伝わる。私の肩口に埋もれる彼の髪からも、薬品と甘い香りが混じった香りがした。
それがとても心地良かった。
「そんな僕でも、君は・・・」
リーマスの声は震えていた。けれどもう泣いてはいないようだった。
私の肩口から顔を上げた彼の表情と言ったら面白い限りだった。
頼りなくて、頼りなくて、これでは子犬だって逃げ出したりしない。これが狼とはお笑い種だ。
「リーマスもあいつらと同じでお馬鹿だね。」
私は笑っていた。口の端を上げるだけじゃなくて、確りと笑ったのはあの日だけだったと思う。
安堵したリーマスの微笑みが驚くほど幸せそうに思えた。
空を見上げた。空は青く広大で、そして偉大だ。夜空は酷く重くのしかかるようなのに、青空はなんと遠いのだろう。
同じ空なのに。太陽と言う偉大さに私は目を閉じる。
いつの間にか動いてしまった偉大な太陽の所為で、木陰からはみ出た足先が暑い。じりじりと靴越しに焼かれるようだった。
「リーマス。」
「なに?」
「質問が二個になってたから、チョコを頂戴。」
「ああ、いくらでも。」
私は焼かれる足を引っ込めて、膝を抱え込んだ。リーマスからチョコを受け取って、それを頬張る。甘い方を渡されていた。
口の中で解けていく彼のお気に入りのチョコレート。酷く甘くて自分が砂糖菓子にでもなってしまうような気がした。
けれどどうにもその味が、私の人生の中で最も記憶に残る味になった。
「」
「」
「」
薬品の匂い。
チョコレートの匂い。
血。
甘い味。
「・・・」
泣かないで。
何故か悲しくなるから。
感情の波が揺れる。
いつもそうだった。
感情の波が揺れる。
自分ではどうにも出来なくなる程に。