誰かの声。
血。
薬品の匂い。
チョコレートの香り。
頬に落ちた滴。
嗚呼、
お願い。
何故か悲しくなるの。
Why Not ?
「っ・・・」
頬に滴が触れた。いや、正確には降ってきたと言うのが妥当だろうか。雨かもしれない。
けれど鼻を突く薬品の匂いの強さ。唇から入り込んだ滴に含まれる微かな塩分。これは決して雨じゃない。
「?」
声。誰の声だったのか。今ならはっきりと思い出すことが出来た。
ちらちらと見えた光。聞きなれた声。<思い出したチョコレートの味。揺れた感情。
意識が浮上する。感情が揺れ動くよりも急速に。脳の真ん中あたりからじんわりと、
けれど迅速に事態を把握しようと覚醒していくのを感じた。
瞳の向こう側が明るい。体が重かった。わき腹のあたりが小さく疼いた。
頬に落ちた滴の一つが、重力に倣うように流れていく。まるで私自身が泣いているような錯覚を私は感じた。
「人の名前を連呼して…まったく、五月蝿いよ、リーマス。」
酷く気だるかった。できる事なら後もう少しだけ寝ていたいような気がした。
けれど瞳を開けなければ、きっといつまでも彼が泣いたままだと思い、力を振り絞る。静かに、酷くゆっくりと瞳を開けた。
徐々に光が瞳を刺激して、いっそう覚醒していくのを感じた。ぼやけた視界のピント。徐々に目の前に迫る鳶色に合っていく。
するとあの日と同じ情けない顔をした狼と目が合った。
感情が揺れる。ずっと、ずっと、鎮めて生きていたのに。全く迷惑な話だと思った。
「?」
「私、生きてるみたいだね。」
運がいい。呟くと、何事もなかったかのように、至極当たり前のように微笑が零れた。
私が、この私が死にたくないと望むなんて。多くの日々を過ごした。多くの時間を経て今の私が居るというのに、
たったあの一日の、数時間足らずの記憶が私にそう思わせるだなんて。人間の生命維持システムは計り知れないものだ。
「ああ、間に合って、良かったっ」
意識が途絶える瞬間に見た光。きらきらと反射した光。杖先に灯した光よりも、彼の鳶色の髪に反射した光ばかりが目に残っている。
杖先に灯した静かな光とは裏腹に、彼の髪にあたる光は金色に反射して、やっぱり彼はあの日のように美しいと思った。
ちょっと歳をとっているし、傷も随分目立つようになったけれど、きっとあの日の人気ぶりは落ちぶれてはいないだろう。
あの日、何故彼の隣に居る女性を想像していたのか、今なら的確に説明できるだろう。
そうやって私は数を数えるみたいに感情を落ち着かせていたんだ。どこまでも、どこまでも自分とはかけ離れた像を描いて。
不一致を認めて。
「本当に、良かった・・・」
彼は崩れるように微笑んで泣いていた。実にややこしい。
もしその表情をしたのが他の人間だったら、私はきっと不快に顔を歪めていただろう。けれど胸が痛む。
何故だろう。彼をこんなにも不安にさせてしまったからだろうか。何かとてもいけないことをした後に、叱られているような心地がした。
窓を見る。空は青く偉大だ。差し込む光が足先に当たってじりじりと焼けるように暑い。あの日を思い出す。
最期に思い出すのがあの日だなんて思ってもみなかった。
いや、最期に思い出すのがまさかリーマスだなんて、正直に予測も付かなかった。予定外。そう、あの日からずっと予定外続きだ。
「他の人を、呼んでくるね?」
彼が立ち上がる気配。数歩歩く音。揺れた空気に混じって甘い香りがした。
「まさかだった…」
私は窓の外を見ている。その私を、きっと振り向きざまにリーマスが見ている。
外の世界は快晴。あの日のようにありえないほどに晴れ渡っていた。空は青くて、太陽が攻撃的で。
空を舞う二つの影がない事が酷く不思議に思えるほどあの日に似ている。同じ空なのだろうか。あの日と全く同じ空なのだろうか。
数歩の足音。一度立ち上がった彼が、私のベッドサイドに戻ってきたのだろう。
「ナイフ?」
「駄目だ、生きたい、会いたい、と思った・・・」
「・・・、誰に?」
「最期に思い出すのが、あの日だなんて・・・」
「ねぇ、?」
「人生で一番記憶に残ったのがあの味だなんてっ」
笑ってしまった。本当に心から可笑しいと思った。
口の端を上げるだけじゃなく、心の奥底から笑いが込み上げてきた。それと同時に、何故か涙が出た。
悲しくなんて無いのに。どちらかと言えば嬉しいのに。
ああ、嬉しいから泣いているのだ。安心したから涙が止まらないのだ。そう悟るまで、私は感情の起伏を抑える事さえ忘れていた。
怪訝に思ったのか、リーマスが私の頬に触れた。彼のほうを向かせられて、リーマスの色素の薄い瞳と視線が交わる。
彼の顔には少し皺が出来ていて、昔よりもずっと深々と傷が付いていて、
瞳の色はずっとずっと深い色をしているように感じた。けれど、そこにはやっぱりあの日と同じ、
少し深刻で、けれど不安に押し潰れそうになる情けない彼の顔がある。
幸せを思い出した。偉大すぎる太陽を見詰めている時や、甘すぎるチョコレートを口に含んだ時を思い出していた。
「教えて、誰を、思い出したの?」
「質問するの?じゃぁ、あの日と同じチョコを頂戴?」
「え!?」
真剣だったリーマスの顔が、段々と赤く染まっていく。私の予測が正しければ、彼もあの日を忘れたりしていない。
「甘い方をよ?」
「っ!?」
「ねぇ、リーマス、あれは告白だったの?」
リーマスの目が見開かれて、表情が少し困ったような微笑みに変わった。
私の頬に触れていた指が、私の涙を拭った。私はもう泣いていない。恐らく今までに無いほど微笑んでいるだろう。
「今頃気付くのかい?」
「鈍いのよ、そういうのに。」
「まったく、本当に、君らしい!」
怒ったふりをしたリーマスの顔が私に寄ってきた。内緒話だと気付いて、私も彼に顔を寄せた。
リーマスの唇が、息が掛かるほどに私の耳に寄り添って、そっと音を紡ぐ。
「僕を好きになってくれる?」
言葉の後に、小さな笑い声が続く。耳がくすぐったかった。耳元から離れた彼が、私を見詰めた。私は肩を竦める。
リーマスも同じように肩を竦めた。
「そもそも私は最期にリーマスを思い出してしまうほど、貴方が好きらしいからなぁ。」
「ああ、そう言うと思ったよ。」
彼は軽く微笑んでから椅子から立ち上がって、自分のズボンのポケットに手を突っ込んだ。
昔みたいにお菓子袋はないけれど、彼のポケットからはあの日と同じ甘ったるいチョコレートが幾つも出てきた。
一つ受け取って、口に頬張ると、彼は私に寄ってきた。
また内緒話かと思って顔を近付けた私の唇に、彼のそれが触れて、口の中の溶ける前のチョコレートが彼に持っていかれてしまった。
非難めいた目で見つめると、彼は恥ずかしそうに笑ってもう一つチョコをくれた。
「僕を好きになってね?」
「もっと?」
「そうだよ。」
感情を起伏させるのが嫌いだった。何かに傷つく事から酷く逃げていた。だから全ての感情を箱に仕舞いこんで、数を数えて鍵を掛けた。
けれどどうやら、私が十数年をかけて掛けたその長い長い呪文のような鍵を、リーマスがいとも簡単に全部外してしまったようだった。
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矛盾がいっぱいですが、ご容赦ください。