わたしには親友が居る。
 見た目は大変麗しく、落ちこぼれとはいえ御家柄は超一級。性格に少々難があるけれど、女の子ってそういう男が意外と大好き。成績優秀。飛行術はずば抜けて然り。悪戯好きなところが玉に瑕。良くも悪くも、兎に角目立つ男。
 彼、シリウス・ブラックがわたしの幼馴染兼親友。





いつだって君がルール






「おー!居た!」

 図書室だということなんてお構いなしに彼の声が響いて、追うようにして司書の怒声。そしてなぜか「やべ、行くぞ」なんて言ってわたしの腕を引っ張る彼。いつだって意味の分からない男だ。
 強引なこの男のせいで置き去りになったわたしの可愛そうな荷物は、きっと友人が回収してくれているだろう。そうじゃなかったら少し困るが、きっとそのことをこの男に言ったって、常識を超えたこの男のルールでどうにかされるだけだ。たとえば、全部買いなおすから許せ、とか。もし誰かの手作り品が入っていたとしたらどうするんだろう。彼が作りなおすのだろうか。いや、そんなわけない。きっとそれよりもいいものを用意するからと丸め込まれる。そんなことが昔あった気がする。

「で、どこいくのよ?」

 何度目かの曲がり角で問う。まともな返事なんて期待していない。案の定シリウスはそのお綺麗な口を横に伸ばして笑っただけで、わたしを引きずるように走り続けている。
 何度目の曲がり角だろう。そして何度目の階段だっただろうか。正直こいつに手を取られた時からどうでもよくなっている。過度に言えば人生そのものが。すれ違うたびに向けられる女子からの視線が痛いせいだ、きっと。

「疲れたわ。」

 嘘だけど。でも嘘だなんて知らないシリウスはピタッと止まって振り返る。やっと解放してもらえるかもしれないと思って安堵の溜息が洩れた。
 けれど相手はシリウス・ブラック。天下は彼の回りもの。そんな感じの男。一筋縄でいくわけがないのを忘れちゃいけない。

「しょうがねぇなぁ!」

 なにが「しょうがねぇなぁ」なのかを聞き返す間もなく、シリウスの腕がわたしの体を持ち上げた。感謝するならば俗に言うお姫様抱っこではなく、子ども抱っこの応用みたいな方法だったことだろうか。いや、どっちだって最悪に変わりは無い。わたしがシリウスに抱っこされてることに何の変わりもない。
 さっきよりも痛い視線を感じながら、わたしはほとほと諦めていた。明日はきっとお呼び出しの嵐だ。グリフィンドールにハッフルパフ、レイブンクローにスリザリン。選り取り見取り綺麗系から可愛い系まで、いろんなタイプの女の子とお近づきになれるだろう。全く有難くないけれど。
 そんなことを考えているうちに、シリウスが思い付いた行き先についたようで、わたしはどっと疲れた気持ちで地面を踏みしめた。見渡せば唯の埃っぽい空き教室だった。

「シリウスおぼっちゃま、まさかここに用があったなんて言わないでしょう?」

「あ?当り前だろう?」

「ああ、そう。そうよ。あんたはそういう人よ。」

「怒ってるのか?」

「怒らずにいられるかしら?」

「俺は怒ってない。」

「全く聞いてない。」

 ああ、もう。
 どうにもならない焦燥感に溜息。
 少し曇った窓から外を見ることで苛々を収めようとした。窓の外はどんよりとした天気だ。雨が降るかもしれない。いや、随分冷え込んでいるから雪になるかも。雪が降って積もったら、シリウスを思いっきり引っ張って雪の中に引きずり込んでやろう。彼は寒いのがとても嫌いだから。

「何に怒ってんだ?」

埃っぽい椅子に気兼ねなく腰かけて、その隣のやっぱり埃まみれの椅子をわたしに進める。せめて埃を払ってくれるくらいの配慮があれば、わたしの明日の悪戯は実行されることなく終わったかもしれない。

「ええ、ええ。あなたってやっぱりそういう人よね。」

 仕様がなく自分で椅子の埃を払うと、シリウスがその手を止めた。

「なに?」

「いや、手が汚れるだろ?」

「ええ、でも服が汚れるよりはいいの。」

「ああ、分かってる。」

 そう言ってシリウスの手がわたしのしようとしていたことを引き継いだ。彼の細い指が少しずつ埃に汚れていく。椅子が綺麗になる頃には、彼の手は埃まみれだった。
 わたしはそんなシリウスの手を引っ張って、わたしの手で彼の手についた埃を払った。

「馬鹿!結局お前の手が汚れちまったじゃんか。」

「いいのよ。」
 
 そう、いいのよ。
 彼の手が汚れていくのは似合わないと思った。なんだろう。言い得て妙な感覚が体をめぐって行ったのだ。

「なんだかね、あなたの手が汚れていくのは、好ましくないわ。」

 少しだけ、陳腐な感情。自分の中にそんなものがあるのが不思議で笑いそうになるのをいつだって堪えている。
 わたしはシリウスが好き。誰よりも。何よりも。親友としても好き。恋愛としても好き。出来ることなら彼の唇にキスをして、彼のお姫様の座を手に入れたいと思ったこともあった。けど、そうしてしまったら、代わりにシリウスそのものを奪われてしまう様な気がした。

「俺はお前の手が汚れる方が嫌だけどな。」

 不満そうな顔をしたシリウスを笑って、彼の進めてくれた席に腰を下ろした。椅子は久しぶりにその役目を果たすようで、少しひんやりとした。
 シリウスと向き合うように少し体をずらすと、彼は確りと体ごとわたしの方を向いていて膝が当たった。

「俺、家を出る。」

「そう。そうよね。その方がいいわ。」

「驚けよ。」

「無理よ。一体何年の付き合いだと思ってるの?あんたが考えることなんてお見通しよ。」

「だよなー!」

シリウスの笑顔が眩しい。やっぱりね、彼は光の中で煌々としている方が似合ってる。ブラック家で鬱々としてるシリウスなんて魅力ないもの。狡猾ってのも似合わない。勉強はできるけど、人間としては結構馬鹿だから。彼がグリフィンドールに入るよりずっと前から、わたしは彼がスリザリンじゃないことは分かっていた。

「で、それで話はおしまい?」

 溜息を付けば、その息が白く濁って目に見えた。窓の外を見た。残念だけれど、雨だ。雪は降りそうにない。こんなに寒いのに。
 シリウスがグリフィンドールに入った日。その後に組み分け帽子をかぶったわたしは思いっきり悪態を吐いてやった。勿論頭の中だけで。組み分け帽子は小さく笑って、わたしに一言謝ってくれた。その時の焦燥感が忘れられない。初めから知っていた結果を思い知った時の、あのやりどころのない哀れさ。どうして、と幾度も呟いた。そんなことは分かっていたのに。
 初めて出会った日に見詰めあった眼が、煌々としていたじゃないか。どんなに望んでも彼には自分の様な狡猾さは無かった。いつも真っすぐで、少し横暴で、時にわがままで…。何処をどう取っても彼はグリフィンドールに入るだろうと思っていた。
 そして彼の運命が動き出せば、いつかきっと彼は彼の周りに纏わり付く、どんよりとした闇を切り捨てていく。分かっていて、でも、いつも、いつも、気付かないふりをしてきた。
 幾度も自分の方から逃げてしまおうと思っていたこの瞬間に、今私は立っている。いや、実際には座っているのだけれど。立ち向かっている。立ち会っているだけかもしれない。

「おまえは?」

 窓の外を何を見るでもなく見詰めていたわたしの顔を、シリウスが思いっきり自分の方へと捻った。正直に首が痛い。でもそれ以上に彼が何を言っているのかが分からずに、「は?」なんて飾り気のない言葉が口の外へ漏れた。

「いや、だから、おまえは?」

「いやいや、だから何が?」

「お前はどうすんの?」

「え?わたし?」

 わたしの親友はシリウス・ブラック。そうだった。彼に常識もルールも通用しない。

「俺は家を出る。お前も家を出るだろう?」

「なんでよ?」

「俺が出るからだよ。」

「いやいや、あんたはグリフィンドールに入っちゃった異端児よ。でも私は普通にスリザリンの家の生まれなうえに、確りとスリザリン寮生なんだけど。」

「ん?ああ。で、どうすんの?」

 思わず片方の口の端が変にひきつった。あんまりにも非常識過ぎる。
 さっきまでのセンチメンタルな気分なんて、もうどうでもいい。いつだってそう。シリウスと居ると何でもかんでもどうでも良くなってくる。ちょっと難しく考えてる自分が馬鹿らしくなって、落ち込む意味だって見失ってしまう。

「ええ、そう。そうよ。あんたってそういう人よ。」

「褒めてんだよな?」

「どうかしらね。」

 思わず笑い出す。本当に、腹の底からおかしい。シリウスは気に入らない顔をしているけれど、わたしは今とても気分がいい。最高だ。きっと明日だって、明後日だって、いつかくるいつかだって…。こいつが居れば、世界はわたしが一人で生きるよりは色んな色彩を放ってくれるだろう。シリウスの居ない明日なんて、随分前に詰らないって気付いちゃってる。

「わたしは今すぐには無理だわ。家は出れても、スリザリン寮を出るのは無理だから。」

「ん。だろうな。」

「そうね、卒業。卒業式の日に家を出ようかしら。」

「盛大に?」

「いいえ、わたしはあなたとは違うからこっそりとよ。」

 わたしが肩をすくめると、彼は同じように肩をすくめながら不服そうな顔で首を傾げた。

「そうしたら、わたし、しばらく住むところがないから、シリウスのとこに泊めてよね?」

「何言ってんだ。」

「あなたに泊めてくれって頼んでんのよ。」

「一緒に住むに決まってんだろう?」

「いつ?一体いつ決まったの!?」

 本当にこの男ってなんだろう。そしてそんな彼を好きになったわたしってなんだろう。溜息を通りこして、体中の息を吐き出すみたいにしてからシリウスの方へ視線を遣ると、思いのほか真剣な目があった。

「そうね、そう。一緒に住むわ。」

 考えるより先に、そう答えた。諦め。いや、嬉しいんだ。口の端に力が入らない。唇を一度巻き込んでみても、やっぱり口の周りの筋肉が言うことを聞かない。そんなわたしを見たシリウスが、目を細めてとても満足そうに笑った。
 好きだな。そう思った。

 卒業したら、その足で家を出よう。お気に入りのお洋服とか、小さなころから窓枠に乗っているクマのぬいぐるみとか、パパから貰ったアクセサリーも、ママが作ってくれたタペストリーも、全部いらない。シリウスがくれたものはどうしよう。ちょっと捨てがたい。でもそれを全部持って出たら、きっとうまくいかない。卒業する前にきっとバレてしまう。そっか。ここはシリウスのルールに則ればいい。彼にまた買って貰おう。

「ついでだからさ、」

 もう一つ、シリウスのルールに則って、わたしも馬鹿みたいにやってみようと思った。今なら大丈夫。スリザリンだけど、グリフィンドールの気分。

 「お嫁さんにしてくんない?」

 虚を衝いたつもりで言い放った。勿論してやったり顔で。でもそんなわたしを見たシリウスは、驚くことも、慌てることもせずに呆れ顔。え?なんてわたしの方が驚いた。
 思いっきり空気を吐き出したシリウスが、わたしの頬を両手で覆った。

「そんなの当たり前だろ。」

 虚を衝かれたのはわたしの方で、覆われた両頬に熱が集まって行くのを感じた。
 さすがシリウス・ブラック。わたしの幼馴染兼親友。やることなすこと突飛もなくて。世界は彼のルールで廻ってる。
 でも、好きだなってやっぱり思った。
 シリウスの唇がわたしのそれと重なる頃には、わたしは目を閉じてホグワーツ最後の年に何を持って家を出るかを考えていた。