悲しくなんてなかった。
永遠なんてあり得ないって分かっていたから。



まるで電気が走ったように



 彼に恋をしたのは、わたしがまだ幼い子供だった頃。ホグワーツ特急に乗って、毎夜夢に見るほど楽しみにしていた魔法学校の入学式の日。
 正直に言えば、なんで彼に恋をしたのか分からない。だって彼は女の子に好かれるような人じゃなかったから。
 教員席に居る人たちの中で一際気難しそうな人。眉間にくっきりと刻まれた皺と、お世辞にも良いとは言えない顔色。真っ黒な髪。そして真っ黒なローブ。几帳面に締められた襟元と袖口。全身から出ているオーラは鬱々としていて、それでいて圧迫感を感じる程威圧的だった。
 組み分け帽子を被る順番を待っている時。何気なく見遣っただけだった。けれど真っ黒な彼を見付けた時に、この人が運命の人なのだと思った。よく「電気が走ったみたいに」なんて表現をマグルの雑誌でみたけれど、こういう感じかしら、と思った。



 わたしの名前が呼ばれて、彼を見詰めたまま返事をした。すると彼がわたしを見て、視線が交わった。彼はただ単に名前を呼ばれた生徒を見ただけ。それでもわたしの心臓は確かにもう一度運命を感じた。

「さて、お嬢さん。何処の寮がいいかね?」

 組み分け帽子が訪ねてきて、わたしはとっさに彼を思い浮かべた。

「あの、教員席の真っ黒な人は誰?」

「彼のところがいいのかい?」

「彼の寮があるの?」

 わたしの二個目の質問への答えは無かった。その代わりに帽子は高らかにわたしの寮を告げた。

「スリザリン!」

 帽子を脱いで、スリザリンの席に向かいながら彼を見ると、感情の読めないしかめっ面のまま、それでも彼の手だけは歓迎を示すように拍手をしていた。それが妙に嬉しくて、その心のままにわたしは彼に微笑んでいた。



「先生、わたし、あの日、やっぱり運命だって思ったんですよ。」

 微笑んだわたしに、ほんの少しだけ表情を緩めてくれた時、わたしはこの人を幸せにしなきゃいけない運命なんだ、と感じた。今となっては、その運命ってやつは無常だったけど。
 わたしは目の前の冷たい石に嘲るように笑いかけた。

「先生、死んじゃうなんて、酷いですよ。」

 本当に酷い。6年だ。6年も掛けて彼を口説いて、7年目にしてやっと彼と初めてのキスをした。それから一緒に過ごしたのはほんの2年程度だ。恋人としてじゃない。生徒と教師よりは親密で、友人と呼ぶにはあいまいで、恋人と呼ぶにはまだ足りない。そんな関係。
 沢山、沢山、数を忘れる程に「好き」を伝えた。そんなわたしの最後の告白への彼からの答えは「全てが終わったら」だった。

「だからね、全部終わったら、幸せにしてあげようと思ってたんです。先生って、ほら、散々な人生だって自分で言ってたでしょ?だから、恥ずかしいくらいめいっぱい幸せにって、そんな風に思ってたんですよ?」

 墓石に項垂れて、気付いたら視界が少し揺れていた。目を閉じても、開いても、彼の残像が視界を遮ってしまう。気難しそうなその顔が、少し困ったみたいに眉尻を下げて微笑む顔が今日も変わらずにわたしを見ていた。
 初めて「好きです」って言った時の、驚いた顔と、困った顔と、一瞬だけわたしに延ばされた手。彼はすぐに引っ込めて、何事もなかったように握りしめて、わたしに背を向けた。
 けどその数年後にその手はまた延ばされて、今度はわたしの頬に触れた。そしてそれからまた一年後、その延ばされて頬に触れた手が、わたしを引き寄せて、人生で初めてのキスをした。

「先生、全部、全部、終わったらね、名前で呼ぼうって決めてたんです。だって恋人になるんですもん。」

 ぽたぽたとわたしの涙が地面に落ちていく。
 キスをした時、彼の唇は震えていた。まるで繊細なガラス細工にキスをするみたいでくすぐったい気持になった。恋のキスというより、まるで神様にキスをするみたいだと感じた。唇を離すと、やっぱり困った風に笑った彼と視線が交わった。

「セブルスって呼ぼうって決めてたの」

「セブルス」

「ねぇセブルスっ」

 誰かの手がわたしの肩に触れた。けれどそんなことどうでも良かった。
 なんで。どうして。そんな後悔ばかり。
 してあげられなかったことが沢山ある。どうして今日できることを今日しないで、「全部終わったら」なんて来るかも分からない未来なんかに託してしまったんだろう。「好きです」って言った日から、名前で呼べば良かった。もっと、もっと、積極的にアプローチして、もっと、もっと、早く彼に触れてもらえばよかった。キスをした日に「家族になりたいです」って言えば良かった。家族になったら、子供を作って、幸せな家庭を彼にプレゼントしてあげればよかった。
 たった数年でも、きっと、きっと、彼にささやかだけど沢山の幸せをプレゼントできたのに。

「愛してるんです。」

「愛しくて、愛しくて、あなたを、幸せにしたいんです。」

「人生って、捨てたもんじゃないでしょって、言ってやりたいって思ってたんです。」

「死ぬなんて惜しい、って思わせてあげたかった!」

 好きな人を失うことばかりが、人生じゃないって。もう二度と会えない人を想い続けるばかりが、人生じゃないって。過去を償ってばかりで生きるだけが、人生じゃないって。生きる意味なんて、明日も笑い合う為だけだっていいんだって。幸せな家庭だってあるんだって、あなたが手に入れて良い愛だってあるんだって…

「なのに、全部、まだ、何にもっ」

…ごめん。ごめん。僕のせいだ…僕の…」

 わたしの肩に乗っていた手に力が籠った。謝る声で、その手がポッターのものだということが分かった。

「違うわ!」

 ふざけるな、と思った。ポッターの手を振り払って、涙をぬぐって彼の方へ振り返った。揺れる瞳に力を込めて、下唇を噛みしめる。
 驚いた顔のポッターと目があった。

「自分のせいだなんて言わないで!あなたが彼に感謝しているなら、彼を勇敢だと思ってるなら、彼の勇気を、そんな風に言わないで!」

 彼はポッターのために、ポッターの母親のために、死んだのかもしれない。でも、それは彼にとっては彼の、彼自身のためだ。誰かの為じゃない。自分で選んで、自分で決めて、自分で進んだ。

「セブルスは、世界で一番勇敢な男よ。」

 幸せのために戦ったんだ。幸せのために、選んで、決めて、進んだんだ。
 幸せに、なるため。

「お願いだから、彼を、惨めな脇役になんてしないで…」

 なんて力ない声だろう。わたしはこんなにも弱い女だった。今にも倒れそうだ。いっそ倒れてしまいたい。
 一緒に死にたかった。ルーピンさんとトンクスさんみたいに。
 せめて死の際に一緒に居たかった。でも、彼は…。わたしが彼の頬に触れたのは、正に「全部終わったら」だった。冷たかった。もう、人とは呼べないほど、冷たかった。
 けれどその表情は、眉尻を下げて、困った風に微笑む、わたしの好きな、彼の笑顔。

「僕、子供が出来たら、セブルスと付けようと思うんだ。世界で一番勇敢な名前だ。」

「そう…、きっと、いい男に育つわね。」

「そうだね。きっと、誰よりも。」

 ポッターを見た。真っ直ぐに前を見詰めている。緑色の眼。彼の愛した人の眼。彼は最期にこの眼に看取られたのか。じゃあ、大丈夫だ。きっと幸せだっただろう。

「悲しくなんてないわ。」

「え?」

「永遠なんてないって、そんなこと分かってたもの。」

 吹き抜ける風が髪をさらう。その風に従って、背にしていた墓石に振り返った。ポッターもわたしに倣って同じように墓石を見た。吹き抜ける風がポッターに似合わない真っ黒なタイを翻らせた。
 彼が歩くたびに翻る黒衣が好きだった。廊下の角を曲がっても、その漆黒が残像みたいに少しだけ居残るのが、まるで追い掛けてくれと言っているように思えた。

「でも、セブルスに、会いたいよ…」

 言葉に詰まる。止まりかけていた涙が再び込み上げてきた。それを見たポッターが、わたしに真っ白なハンカチを差し出した。それを受け取って、目元を覆うと、ポッターが息を吸い込む音が聞こえた。

「彼は死の間際に、僕の眼を…」

「あなたのお母様の眼ね。」

「うん。でも、その後に言ったんだ。」

 眼に押し当てていたハンカチを外して、涙の止まらない眼でポッターを見た。彼は強い瞳で穏やかに微笑んでいた。その瞳は緑色。彼の愛していた少女の写真を、一度だけ見たことがある。本当にそっくりだった。その強く美しい眼だけが。

「君の名前を呼んだんだ。そして、これは君に。」

 渡されたのは銀糸の入った小さな瓶。



 ポッターに渡された中には、彼からの不器用な告白が詰っていた。世界中のプロポーズをかき集めたよりも、ずっとずっとプロポーズらしいプロポーズ。
 ポッターのお母さんを愛していたけど、わたしのことを同じくらい、それ以上に、大切に思うようになっていたそうだ。そんなことをダンブルドア校長先生には言っておいて、当の本人には言ってくれないなんて、本当に彼はなんて不器用な男だったのだろう。
 もう直ぐその記憶の全てが終わろうって頃に、記憶の彼と眼が合った気がした。そんなわけがないのに。

…』

 掠れた声が闇に溶けた。彼がわたしの名前を呼んだ。彼は記憶で、わたしはその傍観者で、決して見詰め合えないのに、本当に見詰め合っている様な気がした。

『すまない。』

 彼の手元を覗き込むと、ロケットの中にわたしがいた。途端、眼から熱が溢れる。
 そんなものを持ち歩いていたなんて、今の今まで知らなかった。
 それ程までに愛されていたなんて、知らなかった。

「セブルス…」

 届かないと分かっていて、彼の名前を呼んだ。

『何もしてやれなかったな…』

「それは、わたしの方なのに」

『「全てが終わったら」などと言わずに、直ぐにでも愛してると言えばよかった。』

 彼はあの夜、覚悟していたんだ。死ぬんだと。もうわたしには会えないんだと。

『この期に及んで、お前にもう一度会う為なら、生きていたいと思ってしまうなどとは…』

 嗚呼。嗚呼。セブルス。愛してる。忘れられない。どんなに苦しくても、忘れられないわ。今すぐ走り寄って、力の限り抱きしめたい。
 そしてできなかったことをしてあげたい。お互い不器用だったのね、って笑って。キスをして、子供を作って、幸せな家を、幸せな毎日を…。子供には毎日愛してるって言いましょう。それから、わたし、毎晩ベットに入る時と、朝目が覚めた時、あなたにキスをするわ。永遠に愛してるわ、って言って。
 ああ、でも、叶わない。過去を生きることが出来たら、どんなにいいだろう。

『死ぬのが惜しくなるとはな…』

 彼が乾いた笑いを漏らした。少し跳ね上がった語尾。かすれた声。震えた言葉。泣いていた。彼は静かに、泣いていた。そして困ったみたいに、幸せそうに、笑っていた。

「セブルス…」

 何にもしてあげられなかった。
 でも、わたし、一つだけ、してあげれたのね―…

「ああ、セブルス!」

「人生って、捨てたもんじゃないでしょ!」

 これは記憶だ。分かってる。
 喉が痛い。涙でひきつった声が響いた。
記憶が終わって行く。少しずつ彼が遠く成って行く。

「セブルス!わたし、わたしっ」

『愛している。永遠に。』

 記憶が終わった。
 憂いの篩を見詰めたまま、わたしは泣き続けた。もう届かないって分かってるけど、愛してる、と何度も叫びながら。



 彼の墓石の前に居る。
 彼が死んでしまってから、幾年も経ったけれど、わたしは彼の墓石の前に居る。
 今日あったこと。明日への望み。それから愛してるの言葉。沢山の言葉を、あなたに届けばいいな、と思いながら語りかける。
 永遠なんてないと思っていたけれど、あるのかもしれない。ただそれはわたし達が望むような永遠ではないというだけで。この数年でそう感じた。何度忘れようとしても、やっぱりわたしはここにきて、こうして彼に語りかけているのだから。
 いつか死んだなら、会えるだろうか。また、あの日みたいに。マグルの言葉を借りるなら、まるで電気が走ったように。運命を感じたい。

 風が吹いて、銀色のスカートが翻った。
 黒衣は着ない。あれはあなたにしか似合わないから