あの卒業の日から、どれくらいの月日が経っただろう。始めのうちは、毎日、毎日、一日、二日と数えていた。自分が思っている以上にまだ幼く浅はかだったわたしは、数えられるだけの時間でこの不安な日々が過ぎ去るのだと、どこか甘く見ていたのだろう。たったの108日目にサラは死んでしまった。優しい彼女は人を殺すことに耐えられなかった。最後に彼女から送られてきた手紙には、ただ一言「どうかあなたは諦めないで」と書かれていた。何を、とは書かれていない。でもわたしには分かっていた。サラが何を言いたいのか。わたしは手紙を握りしめて、諦めないよ、とサラに届くように囁いた。そしてわたしは過ぎ去る日々を数えるのを止めた。なんとなく、わたしの知っている数だけじゃ数えきれないだろうと、確信したから。
ポッターも、リリーも死んでしまった。彼らの子供を一度だけ見たことがある。まだ彼らが健在だった頃に抱かせてもらった。その小さな命を抱えて、わたしはなぜか涙が止まらなくて、腕に抱いた赤ん坊よりも手がかかるとリリーに言われた。あの時なぜ泣いたのか、未だ分からないけれど、ずっしりと重みのある、ポッターによく似た赤ん坊がその緑の眼を開いて微笑んだ時、なんだかセブルスの事を酷く思いだし、切なさが胸を裂いたのだ。
セブルスの噂は良く耳にした。その彼の日々の断片をかき集めて、そっと繋ぎ合わせて、彼のデスイーターとしての活躍を知る度に、彼の迷いや、葛藤や、悲しみ、苦しみといったものを想像し、どうか彼が壊れてしまわないように祈った。どんなに外側を傷つけられても、どうか彼の中に潜む彼が壊されてしまわないように、そればかり祈っていた。そして祈るばかりしかできない自分をどれだけ呪ってきただろう。
数えきれない日々を経て、わたしはホグワーツに帰ってきた。アルバス・ダンブルドアから手紙が届いたから。ホグワーツの正式なマークの入った手紙を手に取った時、ふと胸に光が宿った様に感じた。手紙を開いて、校医助手への誘いを見た時、その光は熱になり、体中をめぐって、震えた唇からそっと吐き出された。手紙には然して特殊な事が書いてあったわけじゃない。校医助手にならないかという文句と、後日ホグワーツにて雇用契約の話をしたいということだけが事務的に連なっていた。けれどその手紙の裏側に、わたしの望むことが書かれているように感じた。
わざわざ懐かしい列車に揺られて、ホグワーツの門を抜けて、城へと踏み込んだ時、その変わらない景色と、変わってしまった空気の両方に切なさを覚えた。変わらない事も、変わってしまった事も、同じように寂しさを感じさせた。
ここでの日々はもう取り戻せない。あの日にはもう戻れない。ここに残してしまったものも、ここに捨ててしまったものも、ここで得たものも全てもうここにはない。ここは、もう、あの日と同じ、自分達の場所では無いのだ。そんなこととっくに分かったつもりでいたけれど、実際にその場所に立ってみると、思っている以上にその事実が胸を締め付けた。
「来てくれたんじゃな。」
懐かしい声に振り返ると、わたしをここへ呼んだダンブルドアが立っていた。彼の穏やかな微笑みに答えると、彼はそっと頷いた。
「君はもう分かっておるのじゃろうて。」
「はい。」
「雇用の話は明日にしようと思うのじゃが…どうかね、懐かしいじゃろう、少し昔を思い出して歩いてみては?」
「ええ、そうさせて頂きます。」
微笑んだわたしに、ダンブルドアはその眼鏡の奥に潜む瞳を細めた。
「信じることは素晴らしいことじゃ。そして信じ貫くことで、君たちは今日を勝ち得た。」
忘れてはならんぞ、と付け加え、去り際にウィンクを残してダンブルドアは去って行った。
勝ち得た。わたしたちは勝ち得たのか。何と戦っていたのかは分からないけれど、確かに日々の中でわたしを打ち負かそうとする敵が居た。それは闇の勢力でも、それを打ち破ろうとする者でもなく、いつもそっと寄り添うようにあった。幾度も下唇を噛んだ。悔しさを感じた日もあった。でもここに辿り着いた。信じ貫いたから。諦められなかったから。
わたしは向かうべき場所へ向かった。ゆっくりと、ゆっくりと、一歩ずつ踏みしめて。一歩踏み出すごとに、あの日々を思い出しながら。するとまるで彼に手を引かれて歩いているように錯覚する。卒業の日を思い出す。扉をくぐれば、そこはあの場所だ。
教室の中に、魔法薬学の道具が揃っている。綺麗に並べられた器具の横に、教科書とメモ書き。そのメモはメモと呼ぶには余りにも丁寧に細かく字が連なっていた。とても懐かしい字だった。間隔も、書き癖も変わらない。数行読むと、脱狼薬だろうと分かった。まだ完成していない。そうね、そういえば途中だったね。リーマスのために作り始めたのよね、こっそりと。この話を持ち出してきた時、全くセブルスってなんて優しくて不器用なんだろうって思ったわ。
小さなもの音がして振り返ると、息を乱した彼の姿。悪戯仕掛け人から守ってくれようとする、あの日の彼と重なって見えた。真っ黒な服に、几帳面に閉められたボタン。ああ、なんて声を掛けよう。
「セブルス、ごきげんよう?遅刻よ。」
考えたのは一瞬で、直ぐに悪戯めいた微笑みと、言葉がするりと口から毀れた。きっとこれでいい。
彼は何かを言おうと口を開いて、同じように悪戯に笑って、身なりを整えた。
「すまない。」
そして始めよう。また。わたしたちの時間を。
別々の時間の中で、沢山のことがあったけれど、語り合うのは今度でいい。それにきっと一緒に居れば、伝えたいことは、きっと伝わるはずだもの。あの日々でそれを学んだわ。それに伝えたいことなんてあの日々と何にも変わっていない。
「ただいま。」
セブルスがそっと囁くように言った。
「おかえりなさい。」
わたしが答えると、材料を準備しながら、彼がわたしを覗き込む。勿論わたしは視線を逸らすことなく彼を見ていた。目が合って、笑い掛けると、彼もまた笑ってくれた。
あの日とは違う、深い悲しみが刻まれた顔。もう戻れない日があることを知っている微笑み。けれど不思議と寂しくも悲しくもなかった。だって、あの日と同じように、彼の瞳の奥に、優しい、優しい、わたしの愛する彼が居たから。
fin