世界を変えたのは誰だ
あたしが目に痛い程に過激な赤いジャケットを着た、馬鹿みたいな男に出会ったのは、火曜日の真昼間。せせこましい街代表の東京のオフィス街のど真ん中でのこと。あたしの恰好は彼とは正反対で、世界中が同じものを着てるんじゃないかってくらい当り前なデザインの黒いスーツに、これまた誰もが同じものを履いてるんじゃないかってくらい面白味のない薄汚れた黒のパンプスを履いて、地球なんて吹っ飛んじまえ、なんて心の中で呟いてた時。
着たくもないありきたりなものを着て、したくもない仕事を抱えて、夏の名残りの暑さに嫌気がして、この湿気の多い国にはまことに似合わないオープンカフェの椅子にドカリとお行儀悪く座り込んだ。そんなあたしを見て、隣の席に居た男が笑った。
「なぁんか嫌なことあったのぉ?」
なんて、間延びした甘ったれた声で話しかけてきた彼を、あたしは視界に入れることなく店員を呼びつけてアイスコーヒーを頼む。愛想笑いをひっ付けた店員が面倒くさそうにミルクと砂糖の有無を尋ねたのに、そんな彼女以上に面倒くさそうに返事をした。
嫌な事があったかなんて馬鹿らしい。嫌なことだらけだ。嫌じゃないことなんて最近何もないかもしれない。それはちょっと大袈裟だって分かってはいるけど、人生ってやつそのものに不自由感じちゃ、大袈裟に言いたくもなる。
「ねー今日はいい天気だぜ?」
また甘ったれた声がした。誰に話しかけてんだか。このオープンカフェの軒先に居るのはわたしと彼だけなんだから、わたしだってことは明々白々だけど。ていうか誰だよ。そんな風に考えながら資料の束に手を突っ込むと、丁度アイスコーヒーが届いた。一気に半分くらい飲むと、ほんの少しだけ胃の中がスカッとする。けれど右手に触る紙っぺらがあたしを憂鬱に引き戻す。その紙っぺらに目をやって、正直こんなものどうでもいい、なんて溜息を吐いた。あーあ。もう、ほんと、どうでもいい。
「なぁ、そんな詰まんない顔、今日の空には似合わないぜ?」
三度目の甘ったれた声と一緒に、視界に赤が飛び込んだ。驚いて視線を上げると、猿顔の男がニシシと笑っていた。背中に背負った太陽が、彼の赤い輪郭を軟い色に彩っていた。なんて極彩色。なんて、自由な色だろう。何にも縛られない笑顔が、見開いた眼に焼けつくように感じた。正に目を奪われた。
その男はあたしに何の断りも無しに、あたしと相席して、あたしの資料を奪って、あたしの鞄も奪った。そしてあたしのアイスコーヒーを飲みほして、あたしの机に二人分のお金を置いて、あたしを立たせて、あたしの手を取って、あたしを連れ去った。その間あたしは何も考えてなかった。ただ彼のその自由な振る舞いに目を奪われていた。腕を引かれて、たたらを踏んでも、それに小さく誤った彼を見てることしかできなかった。
「先ずは服だな。」
掴まれていたのが腕から、手に代わって、陽気な声が耳に届いた時、始めてあたしが当事者だってことを理解した。そして疑問はループ。あんた誰よ?
「ちょ、ちょ、ちょ!誰?」
「ん?俺?」
「そうだよ!」
「泥棒さ。」
「はぁ?ちょっとあたし何にもないから。」
「別に君から何か奪おうなんて思ってないよー」
いや、思ってるかもー?なんて付け加えて、あたしをぐんぐんと引っ張って行く。
「はぁ?泥棒なんでしょ?」
「今日はお休みー」
はぁ!?なんていう、可愛くもないあたしの叫び声が街にこだますけど、ここは煩い街だから誰も気にしない。それに薄情なのがこの町の売り。ていうか大体関わりたくないものだよね、こういうことには。いやそれよりもこの平日真っただ中にお休みってあり?泥棒っていう職業を冗談だと思ってたあたしはそんなことばっかり考えてた。
「お休みなのは分かりましたけど、この状況は?」
「俺暇なの。だからまずは名前教えて?」
「あんた名乗らないくせに?」
「だめぇ?」
繋がれていた手が離されて、肩を寄せられて、覗きこまれた。その覗き込んできた笑顔があまりにも柔らかで、さっきまであたしなんで怒ってたんだっけ?、なんて思う。そうしたらずんずんとあたしの心は彼に加担して、もう何でもいいか、なんて思った。本当は何でも良くなんてないんだけど、なんかどうしたってどうにもならないって感じがした。だって彼は底知れない自由を持ってる。そしてあたしはその自由を渇望してるわけだから、彼に従うのもありかもしれない。そんな風に思ったから。そんなのは建前で、ただ純粋にあたしは期待していたんだと思う。今日が変わって、違う明日が来るんだって。
「」
「ん?」
「わたしの名前は!」
彼の耳を引っ張って、声を張り上げて言うと、彼が楽しそうに笑う。
「俺はルパン。」
「…へぇルパン…ルパン!?」
「そー!ルパーン三世さ。」
正に驚愕。ほんとびっくり。ルパン三世ってあのテレビとか新聞とかに載ってる奴?世界的に活躍中(?)の泥棒さんのルパン三世さん?いや、やっぱり冗談?
「着いたぜ〜」
何処に?なんて聞く前に、目の前の扉が開いて、飛び込んできた極彩色に眩暈。色とりどりのドレスが並んだお店に、引っ張られるままに踏み込んだ。場違い、って言葉ばかりが頭をかすめて、少し俯いたら、ルパンがそれにNGを出す。困った風に彼を見れば、可愛いけどだめー、なんて馬鹿みたいな事言われた。
「ちょっとぉ。こういうとこは場違いだよ、あたしには。」
一介のOLですよ。しかも端くれも端くれの端くれ。つまり凡人以下。なんだか自分で言っていて虚しく成るけど、現状は本当にそんな感じ。面白みの欠片も存在しない人生。ああ、なんて不自由で呼吸が苦しいんだろう。ってさっきまで思ってたところなんだから。
「そういう顔はだーめだって。」
「元々こういう顔なんですぅ」
「いんや、嘘だね。きっと笑ったらかぁわいいぜ?」
不覚にもちょっと胸が跳ねた。頬に熱が集まるのを感じてそっぽを向くと、その顔の方がさっきまでの顔よりは良い、なんて言ってくれる。騙されそう。いや、実際もう騙されてるのかも。
「何色好き?」
「黒。」
「却下ぁ!」
そんなあたしたちのやり取りを見ていた店員が小さく微笑む。あ、どうしよう、恥ずかしい。苦笑いを店員に返すと、こちらなんてどうですかと胸元のがっつり開いた布面積の少ない真っ赤なドレス。いやいや、それ着て日本の道路を歩けと?
「隣の人と色が被ってるんで遠慮します。」
そう言ってルパンを指差すと、どうやらいい感じに笑いは取れた。思わずあたしもつられるように笑ってしまうと、ほらみろ可愛い、とすかさずイタリア人並のレスポンスの良さでルパンが突っ込む。
「じゃあこれにしろよ。」
いつの間にか間延びした喋り方を引っ込めて、ルパンが真っ白なドレスを手に持っていた。マリリン・モンローが映画で着ていたみたいな白いドレス。
「…似合わないよ」
あたし、そんな白いのは。さっきまで地球爆破計画とか考えてたんだよ?地平線の向こう側の戦争が世界を滅ぼせばいいのにとかも考えた。どっかの大昔の人がした世界崩壊の予言が当たればいいとか、かつての科学者たちはどうして世界中を吹っ飛ばすくらいの力で核爆弾を作ってくれなかったのかとかまで考えたよ。まぁルパンは知らないだろうけど、あたしは今日この正午までの間にそんなことを10回以上考えるような女なんだから。平平凡凡な毎日を嫌がって、でもそんな毎日に甘えて生きてる。詰まんないって呟きながら、そのくせ本当に地球を爆破することなんてできやしない。詰まんないのはあたし。
「似合うよ。」
綺麗に磨かれた床に視線を落としたあたしを覗き込むようにしたルパンの真剣な声。あたしは戸惑いながら少しだけ視線を上げた。
「絶対似合う。」
真剣な目を細めて、凄く優しく微笑んだルパン。逆らう気なんて起きない。それどころか彼が言うように、絶対似合う気がしてくる。彼に任せておけばなにもかもが上手くいく。そんな気持ちが体中を満たしていく。満たされていく。涙腺が少しだけ刺激されたのを、微笑むことで隠してみたら、彼はいっそう目を細めて笑い返してくれた。
あたしは彼からドレスを受け取って、店員に促されるまま試着室へ入った。そしてドレスを身に纏って、鏡を見る。なんだろう、胸が躍る。わくわくする。なんだかこれから楽しいことが沢山待っているような、うんと小さな頃にサンタさんを待ってたクリスマスの夜みたいな気持がした。
「ほら、似合うじゃねーか。」
そっと開けられた試着室の扉から覗いたルパンに、鏡越しで微笑むと、彼はそっとあたしの肩に触れて、その手をあたしの手まで滑らせる。ドキドキした。
「次は靴だな。」
そう言ってわたしの手を引く彼は、どうやらもう会計を済ませた様だった。店員が、良い一日を、なんて言ってくれたので、あたしは扉から滑り出る前に振り返って、ほんの少し前の自分からは考えられないくらいに無邪気に手を振った。
辿り着いた靴屋もそれはそれは素敵なお店で、正直ルパンは一体どうしてこんなにも女性ものの店に詳しいのやらと推測したく成る。でもそんなのは簡単だから考えるのは止めた。
真っ白なドレスに合わせて、真っ白な華奢なハイヒールをチョイスしたルパンが次にあたしを連れってたのはヘアサロン。髪を綺麗にセットされ、念入りにメイクアップされたあたしはもうさっきまでのあたしじゃなかった。
「どうしよう」
マリリン・モンローみたいなドレスに、真っ白な華奢なハイヒールで、お姫様みたいにセットアップされたあたしで歩く道路は、なんだかいつもとは違って見えた。心臓がドキドキして、わくわくしているけど、なんだか怖いよ。少しだけ不安になる。
「なぁにが?」
優しい目をしたルパンにエスコートされて、いつの間にかルパンが用意した車の助手席に乗り込んだ。
「なんだろう。」
ほんとはなんとなく分かってる。分かってるけど…。これは夢だって言って欲しいのは、臆病者なあたし。地球を爆破出来なくても、地平線の向こう側の戦争が世界を滅ぼさなくても、あたしの送る詰まんない毎日を壊せる事は知ってた。でも、勇気がなかったんだ。チップの代わりに人生を掛ける勇気が。だから自分じゃできないようなことを考えて、そうできないから駄目なんだって決め付けて、自分を守ってた。あたし、馬鹿。なんて、馬鹿なんだろう。
「大丈夫だ。」
真っ直ぐ前を見てエンジンを掛けたルパンの声が、車内を満たす。震える事のない、深い音をしていた。その音につられて彼を見ると、彼は酷くひたむきに前を見続けていた。
「大丈夫だよ。」
「大丈夫、かな。」
「ああ、なら大丈夫だ。」
ルパン、あなたにも分かるんだね。あたしが何を怖がってるか。ねぇ、ルパンも、大昔に怖いと思ったりした?
ルパンが何処へ行きたいか聞いてきたから、海が見たいって答えた。日本の海なんて大した事ないし、いっそ言ってしまえば汚いし、見たってどうってことないかもしれないけど、でも海が見たかった。なんとなく。着く頃にはきっと夜になってるって分かってた。
「これ、着とけ。」
窓の外を見て、時々ルパンを見て、ラジオから流れてくるなつメロに反応したりして、海に着いた。案の定夜。真っ暗な世界に、真っ赤なルパンと、真っ白なあたしが立ってる。ルパンがその真っ赤な上着をそっとあたしの肩にのせてくれた。
「毎日って、変わんないって、変えられないって、思ってた。」
「そりゃぁ思い違いだ。」
「そうだったみたい。あたしって馬鹿だ。」
「そうは思わないぜ。」
横に居るルパンに、嘘吐き、って意味を込めて微笑むと、彼も笑い返した。暗くてその表情は分からなかったけど、嫌な空気じゃなかった。なんだかとても柔らかくて、包まれて、安心する。あたしはこいつに騙されてる。騙されていたいと思ってる。
「ねぇ、ルパン。」
「なんだい?」
「もう今日には帰れそうにないや。」
「それでいいんじゃねーの?」
「そうだね。その方が、絶対いいね。」
海の水面がきらきらと光ってる。月の光を辿って歩けば、向こう側まで歩けそうな気がした。そうしたいと言ったら、きっとルパンが奇跡みたいに叶えてくれるかな。
「仕事辞めよう。」
「うん。」
「スーツ捨てるわ。」
「ああ。」
「次は赤いの買おうかな。」
「お揃いだな。」
そうだね、って呟いて、笑った。溜息みたいな笑い方だな、なんて自分で思って引っ込めた。違うよね、そうやって笑うべきじゃない。あたしの今日は変わったんだ。もう明日だって変わってる。同じに感じるような毎日は、もう来ない。真っ赤な太陽があたしの事を照らしたから。あたしは夜だって怖くない。
「このまま・・・」
ルパンが言葉を止めた。彼にも迷う時があるのかと、笑ってしまいそうになる。でもそんな陳腐な笑いは引っ込めて、少女みたいに笑ってやった。そんなあたしを見て、ルパンは呆気にとられて、女ってのはすげぇな、なんて言いながら首の後ろをひっかいてた。
「このまま俺とくるかい?」
今度はすんなりと、あたしに向かってその無骨な手を差し出して言いきった。あたしはもう一回少女の様なわたしを引っ張り出して、彼の手をしっかり握った。
「当り前よ!責任とってよね!」
夜の海にあたしとルパンの高い笑い声が吸い込まれていった。