Nemo ante mortem beatus. #1これは運命の悪戯




 運命ってなにかな。
 例えば今朝、私は彼の左頬に朝のキスをした。それが運命を大きく左右したのだろうか。もしも右の頬にしていたならば、この運命は大きく変わってくれただろうか。
 きっとそんなことはあり得ない。わたし達の運命はもっとずっと昔から決まっていただろうから。だからわたしはこの瞬間を覚悟していたし、今日の代わりに幾度も嘆いてきた。
 目の前で散っていく愛しい命を見ながら、酷く冷え切った脳がそんなことを考えていた。

 「トム…」

 倒れ行く彼の肢体を見詰めながら漏れ出た言葉は、彼が憎んだ彼の名前。ありきたりな名ではあるけれど、わたしは嫌いじゃなかったよ。
 今まで怒涛の如く流れていた空気が、速度を著しく下げて、いっそ止まってしまいそうだった。誰もが固唾を呑み、息を吸うことさえ忘れて結末を見ていた。ジッと目を凝らして。
 動きを止めようとする世界で、わたしの頬を温かな涙が伝った。
 嗚呼、なんていう結末だろう。これが運命か。
 自分を悪役だと知らない彼の放った死への誘いは、正義を掲げる少年に向かうことなく撥ね返り、そして魔王たる彼を貫いた。正に運命の悪戯。物語の結末。
 ハリー・ポッターと目があった。段々と見開かれる彼の眼が、わたしを見ている。驚愕に揺れた少年の瞳が、わたしが安堵し微笑みながら泣く不様な様を捉えていた。



 トム・マールヴォロ・リドル。確かそんな名前だった。平平凡凡なトムという名を彼は大層嫌っていた。けれど東洋人のわたしにはトムという彼の名はとても呼びやすくて好ましいものだった。

 「僕はね、自分の名が大嫌いだよ。」

 「ええ、そうでしょうね。もう聞き飽きたわよ、その話は。」

 「ならばどうしてにこやかにその名を呼ぶのかね?」

 「あなたが嫌いでも、わたしはそうではないからよ。」

 「ああ、そうかい。僕への意地悪ってことかな?」

 「違うわ、わたしだけの喜びよ。」

 正直に、わたしたちはお互いにお互いの距離を測りかねていた。お互いに大した八方美人であるのに、一定以上の人間同士の関係にはとても疎かったのだ。
 彼もわたしも愛情というものにそこそこ不自由な人生だった。だからこそお互いを補うように惹かれたのかもしれない。いや、惹かれたのはわたしだけだったのだろうか。そこのところを、彼がまだただの少し才能豊かな人間だった間に詰問するのを忘れてしまった。

 「ああ、聞いて頂戴よ、トム。」

 「君がその呼び方を改めてくれるのならね。」

 「いいえ、無理よ。それとも何?あなた新しい名前でもあるの?」

 「ああ!よく聞いてくれたね。」

 「ああ嫌だ、ちょっとわたしの話の方を聞いて頂戴。」

 「僕の素晴らしい名前を聞いてくれるならね。」

 「まったく、だったらさっさと済ませて頂戴よ。」

 トムの口の端が嫌なくらいに跳ね上がって、にやりという効果音を立てた。美しいその顔は恐ろしいほど不愉快な顔だった。
 彼の杖が彼の名を宙に掲げ、蠢く。並び変わった文字が彼の新しい名をわたしに告げた。

 「ヴォルデモート?」

 「そうだよ。いい名だろう?」

 「舌を噛みそうよ。」

 わたしは彼の新しい名前が嫌いだった。無理やりに取り繕ったような仰々しさが厭らしいと感じた。背を這うような心地悪さを感じた。
 それだけじゃなく、わたしはこの時に彼の運命ってやつを悟った気がした。例えばわたし達の生きるこの日々が物語だったとしたならば、きっと彼に与えられた配役は悪。世界を忌み嫌い、そして世界中から忌み嫌われるであろう悪役の主。読み聞かせられる子供たちが口々に彼をやっつけろと言う。魔王。
 けれど大層な八方美人のわたしは、そんなことは微塵も感じさせないポーカーフェイスで彼の真っ黒い部分を押しやって、わたしの話を持ちかける。結局、わたしは彼との距離を測りかねたのだ。
 もしもこの時のわたしが、愛に不自由したことのないお嬢さんだったなら、なにか変っていただろうかと考えて、否、と嗤う。わたしがそんな女だったなら、先ずトムとこんな話はして居ないだろう。変わったとしたら、わたしが彼と出会うことがなかったことになるだけだっただろう。

 「さぁ!今度はわたしの番よね?」

 「全く。約束だからね、どうぞ。」

 「わたしに結婚しろというのよ!こんなものを送りつけてきて!」

 彼の闇の鱗片を吹き飛ばすように、力を込めて「こんなもの」を彼に投げる。難なくそれを受け止めた彼の眉がギュっと寄った。

 「これは、お見合い写真、てやつかな?」

 「そのようね。」

 「それではこれをどうしたいと?」

 「そんな紙切れに映っている、あなたと比べたら月とすっぽん並に違う男なんて消えてしまえばいいわ!ああ、本当に腹が立つ!父も父よ。わたしのことにまるで関心がなかったくせに、こんなことにだけ関心を持って。」

 この時、どうしてわたしは彼を見ていなかったのだろう。もしもわたしが真っ直ぐに彼を見ていたならば、彼との距離を測りかねていなければ、きっとこの先に彼がする行いを感じ取ることが出来ただろう。止めることが出来たのかはまた別として。けれど止めることが叶わずとも、何かしら行動することはできただろう。
 適当に相槌を打って、早々に話を切り上げてしまった彼は、興味がないようなそぶりでわたしを置いてどこかへ行ってしまった。

 「全く!トムったら、酷いわ!」

 彼の背に掛けた言葉に深い意味は無かった。けれどその数日後、実際彼が酷い人間であるということを、わたしは思い知ることになったのだった。



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