Nemo ante mortem beatus. #3どんな事になっても、失いたくない




 光をください。子供の頃漠然とした何かを求めて、神様なんて信じても居ないのに連れて行かれた教会で、そんな風に祈った。光をください。でも、光ってなんだろう。そんな漠然とした願いじゃきっと神様だって叶えようがなかった。
 今、光が何かと問われたら、浮かぶのはきっと彼だ。でも彼は光じゃない。彼の中は正真正銘の真っ暗闇だ。

 「どうしたんだい?そんなところで頭抱えたりして。」

 燦々と降り注ぐ太陽の光の下に居ることが、何故だか後ろめたくて、それから逃げて木々が作り出した影の中で俯いていた。そんな私に掛けられた声はもっとも聞きたくて、けれど今はもっとも聞きたくなかった声だった。

 「ああ、トム。今は放っておいて。」

 「なぜ?もう直ぐ授業の時間だけど。」

 「そうね、でも、放っておいて頂戴。そして貴方に優しさがあるなら、教授に具合が悪いって言い訳しておいて。」

 トムは茶化すように「きみの為なら」と答えて遠ざかって行った。そう、トムはわたしの為なら何でもするのよね。人殺しも。そんな風に心の中で皮肉を言ってみても何も変わらない。
 トムのしたことは絶対におかしい。おかしいことは分かってる。でも分かっているからなんだって言うのだろうか。
 彼は光だ。わたしの光。光に紛れて暗闇に置き去りにした私を見付けてくれたのは彼だけだ。彼のしたことが、彼の心の中が、そもそも彼という存在が真っ暗闇そのものであったとしても、わたしにとって彼は光でしかない。

 「伝えてきたよ。」

 背後から彼の声。きっとそうすると思っていた。彼はわたしの言うことなら何でも聞いてくれるわけじゃない。わたしの希望を叶えたうえで、彼自身の望むことをする。彼は彼の世界の神様。光。そう、きっとわたしは彼の世界に取り込まれてしまったのだ。

 「ありがとう。」

 「落ち着いたのかい?」

 「何のことかしら。」

 彼の方へ振り返ると、恐ろしいほど穏やかな彼と目が合う。心臓を刺激して、胸をはい上がって、唇を震わせて、目元を温める熱は一体何だろう。

 「、どうしたんだい?」

 「どうもしないわ。」

 「いや、嘘だね。そんなに泣きそうな顔をして、何を言うんだい。」

 彼の指がわたしの頬を撫でる。少し低い体温。細い指と整った爪の先。人殺しの手。なのにどうしてわたしに触れるこの手は、こんなにも愛しいのだろう。

 「トム、くだらないことを聞いても?」

 「きみからの問いならば、なんでも。」

 「いけない事をした人を嫌いになれないの。ますます愛しく思うばかりなの。ねぇ、わたし、いけない子かしら?」

 トムは怒ると思った。けれど彼の表情は見る見る解けて、見たことがない程幸せそうに微笑んでいた。小さく彼の名を漏らすと、彼はわたしの唇に手を当てて静かにするように言う。彼が瞳を閉じて、彼の顔が少しずつ近寄ってくる。彼の唇がわたしの唇に触れる少し前に、わたしも瞳を閉じた。光を透過して、瞼の裏側は赤かった。

 「、僕ときてくれるよね。」

 「何処へ?」

 「僕が向かうすべての場所へ。」

 彼が向かう全ての場所。これからの世界。彼の望む世界。そして終わり。
 ねぇ、トム。この時わたしが思っていたことが、この物語の終焉だと言ったら、あなたは嗤ったかしら。きっと嗤ったよね。終わりなんてこないって確信していて、永遠に一緒に生きるつもりだったのでしょうから。

 「行くわ。何処へでも、何処までも。」

 微笑んでキスのお返しをしたわたしが、心の中で唱えたのは誓いの言葉。病める時も、健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を別つまで…。そう、死が二人を別つまで?いいえ、それでは足りないわね。わたしとあなたの間に死が横たわる時は、その死を超えて、あなたと共に地獄まで付いて行くわ。
 だって、どんなことがあっても、あなたを失いたくないのだから。



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